Jitz. LIFESTYLE

アートと武術と、ライフハックと。

ブラジリアン柔術では生き残れない…

今日は久しぶりの柔術ネタだが、手厳しいことを書く。というのも、柔術関連の記事を楽しみにして、定期的にチェックしに訪れる人たちがいることは把握してるが、そんなに僕が書くものに興味があるんなら、素直に『柔術インテリゲンチャ*1 』登録しろよってくらい、悲しいかな柔術コミュニティは「陰キャ」体質の人間が多い。

 

手前味噌だがおそらく真の武術家なら、このブログで面白いと感じるであろうものは以下の2つであるはずなのだが、多くの柔術系読者は柔術に関係ない記事だと踏んでしまっていることだろう。柔術を知りたい、極めたいという人には、語彙力を増やして、ここらへんの"感性"を磨いてほしいと願うばかりだ。センスのない武術家はカッコ悪い。

 

僕が書いてきたことは一貫している。柔術の正史を紐解き敷衍して見ると、この国に広がるBJJは実は紛いものの文化ということなのだ。どうか皆さん、自分が取り組んでいるものを疑いもせず、日夜、どうでもいい道着なんかを物色し、2chあたりでゴシップに愉悦を感じる下世話なこの国の筋肉バカ、もとい柔術コミュニティには与しないでほしい。

 

唯一生き残るのは、最も変化に適応できる種である。進化論の提唱者ダーウィンも言っている。変化に適応するためには、あらゆるものにヒントを見出し、それらの考え方を取り入れていかねばならない。"柔術"カテゴリばっかポチポチやってないで、もっと視野を広く、いろんなことに興味をもってみてほしい。知識も雑食でなければ、これからの世の中を生き残ることはできないのだ。

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今の現代柔術は競技性にばかり目を奪われ、思考することをストップしてしまった時点で、もはや武術としての護身性を放棄して、たんなる荒くれ者たちによるスポーツに成り下がってしまっている。"Survive(生き残り)"を至上としたエリオ・グレイシーの柔術を曲解して体系化されたのが、今のブラジリアン柔術の原型となったホーウス・グレイシーの柔術だが*2 、日本で行われている柔術をエリオが見たら泣くよ、きっと。

 

この状況を生み出している要因の一つは、2000年代以降、堀部正史や松田隆智などのインテリジェンスを兼ね備えた理論派の武術家が姿を消したことで、日本の寝技文化が衰退したことが考えられる。武術がもたらす人間の可能性の追求、身体操作の哲学性が失われつつあるのだ。他方で打撃系の世界では井上尚弥や堀口恭司、那須川天心などのクレバーな現役選手の活躍もあり、ボクシングやK-1が空前の盛り上がりを見せている。彼らの戦いにはコンマ数秒の動きのなかにも必ず意図があり、けっして考える前に動いているわけではないことが分かる。

 

そもそも護身術自体が状況をもれなく正確にとらえ、“判断”すること、すなわち、「考える前に動く」ことよりも「動く前に考える」ことが大事なのである。なぜなら、いざという時の選択肢は、即座に戦うだけではなく、“逃げる”のはもちろんのこと、他に仲間はいないか、武器の携帯はないかなど瞬時に把握しないと致命傷になりかねないからだ。ブラジリアン柔術でそれが可能だとは思わない方がいい。ブラジリアン柔術とグレイシー柔術は形こそ似ているが、まったく非なるもので、それはグレイシー柔術が誇るUFC戦士ブライアン・オルテガのロール風景を見ていてもよく理解できる。


Mike Everett flow rolling with Brian "Tcity" Ortega

 

ポジショニングとコントロールを重んじるグレイシー柔術では、静動織り交ぜた流れるような動きのなかで、形勢上やられているかのように思えても自然と相手をコントロールすることに長けた秘技が存在する。ここには脳が働くことで見える大局観の世界があり、パワーなど無縁なのだ。つまり護身術では、筋肉の使い方よりも脳の使い方こそが肝になるということだ。一方でパワーやスピードに頼った柔術家や格闘家は「武術家」を名乗ってはいけない。たんに柔術をやっていることに酔った自己陶酔者、というだけだ。

 

実はかくいう僕も競技柔術の不毛さに気づき、ブラジリアン柔術をやめてしまった。試合に出るのも、やめてしまった。そして、2足のわらじを履いて学んでいたグレイシー柔術に完全に転向したのだ。

 

それでもなお、こうして書いているのは一人でも柔術の真実に気づいてほしいからだ。

日本の柔術家よ、頭脳を磨け!

 

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