Jitz. LIFESTYLE

アートと武術と、ライフハックと。

クロン・グレイシーにみる“武術”と“芸術”の関係

伝説の格闘家ヒクソン・グレイシーの息子、クロン・グレイシーが2月18日(月・現地時間)にUFCで鮮烈なデビューを飾った。試合時間たった2分06秒での一本勝ち。グレイシー柔術の基本に忠実なテイクダウンからバックテイク、そして伝家の宝刀チョークスリーパーによる、“オイラーの等式”ばりに美しい見事なグレイシー流の勝利だった。

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あのテイクダウンでの脚の引っ掛け方はヘンゾ・グレイシーの流儀によるものだとか、拳を捩じ込むチョークはブラジリアン柔術のバリエーションにはないものだとか、様々なテクニカル分析がなされているのだが、俺はちょっと違う点に注目していた。それはクロンがどんな心境と覚悟で試合に臨んでいたのか、入場の仕方にこそ彼の意思と今後が内在しているのではないか。そう思って試合映像を見ていた。


Renzo Gracie Broomstick Takedown from the Back

 

蓋を開けてみるとミニマルにサイレンが鳴り響くだけの、不気味なまでにシンプルな、曲ではなく効果音をBGMにした入場で、その世界観のつくり方の意外性たるや思わず驚愕させられた。圧巻だった。それはあたかも、修験道で山伏が吹く法螺貝の如く勇壮な印象があり、徹頭徹尾の潔さのなかに見る悲壮な覚悟でもあった。アラサーの若者にして、センス良すぎだろ。宮本武蔵や葉隠などを愛読し、日本古来の侍に傾倒していたヒクソンにも近い世界観が、ひょっとすると奇しくもクロンにはすでに見えているのではないか。そんなことを感じずにはいられなかった。


Kron Gracie Entrance Music UFC

 

「獲るか、獲られるか。(中略)これは真剣勝負だからね」と試合後のコメントに加え、入場の仕方は映画『パージ:大統領令』に着想を得たとインタビューで語っているが、クロンの入場にはあきらかに日本美術の真髄ともいうべき“引き算の美学”が見え隠れしていた。もともとのUFCを興しながら地に墜ちたグレイシー宗家の家名を背負い、最強の格闘家を父に持つクロンが参戦した理由。終始リラックスしきった様子だったが、まさに負ければ切腹、と云わんばかりの自信と矜持があの入場には込められていたように思うのだ。そうした覚悟が、不思議なまでに日本的な美意識と邂逅したのではないか。

 

当ブログ馴染みの御仁は、不思議に思ったことはないだろうか。何故に俺が柔術とアートを同列に論じるのか、と。だが本来、武術とは究極の「用の美」を追求したものだ。型や所作としても美しいが、実戦において遺憾なくその効力を発揮する実としての美しさ。そんな実用美、機能美こそが武術の真骨頂であるはずだ。そして「侘び寂び」に代表される日本の伝統的美意識もまた、物質的に侘しくも心豊かな日常の暮らしのなかで、精神的な実の“美”を見出すことができる普遍の風景にこそ、その本質を宿していた。つまり、武術とアートは繋がっているのだ!

 

そう云われてもいまいちピンとこない御仁は、総合格闘技を意味するMMAという語をよくよく紐解いてみるがよろし。MMAはMixed Martial Artsの略で、Artが含まれているとおり、マーシャルアーツとは「軍事的な芸術」を意味する。つまり、武道、武術には、本来的に美学的なアートにも通ずる独特の感性が必要とされていたのだ。あのヒクソンも敬愛する宮本武蔵は剣豪であると同時に、画技にも長けた真のアーティストだった。実際に彼が描いた水墨画は、如拙から雪舟、長谷川等伯らによって連綿と受け継がれる山水の流れを色濃く汲んだものとして評価されている。

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「能禅一如」、「茶禅一味」、「剣禅一致」という言葉があるように、伝統芸の思想は禅と深く結びついている。そして、その禅の世界観を視覚的に表現したものが日本美術の礎にはある。宮本武蔵は剣を極める途上で、独特の死生観に辿り着いたのだろう。その境地が禅と結びつき、あのような繊細かつ大胆な筆の運びを可能にした。絵画を描き、また鑑賞するという行為は第六感によって可能になる。能楽や茶道、武道のいずれの芸事もまた、シックスセンスを開放し、特殊な知覚を発動させるプロトコルなのである。つまり、いずれも芸事を極めることで見えてくる世界観は、おそらく同じ景色であるはずなのだ。

 

芸事ではなく生き方としての実践のなかに、同様の世界観を見いだしうる御仁も存在する。いつ絶たれるともしれぬ命のやり取りを生業とする、「任侠」といわれる人たちだ。彼らが何故、伝統的美意識を好むのか。彼らが揃って背負う毒々しいまでの日本伝統刺青は、たんなる慣習によるものなのだろうか。否。そこにはまさに、静心なく花の散るらむ…に代表される「もののあはれ」な無常観がある。どうせ散るなら華々しく、悔いのないように。そうした死と隣り合わせの営みの哀楽に、彼らは幽玄の宇宙を視るのだろう。

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DJ KRUSHというサウンドクリエイターがいる。ヒップホップの世界で独自のサウンドを追求し続け、世界的に評価されている日本人アーティストの一人なのだが、彼もまた、かつては任侠の世界に身を置いていた人間だ。そんな彼が表現し続ける音もまた、自らの存在根拠を希求するかのような無常の宇宙観が醸された、紛れもない“任侠の視る風景”なのだ。骨太ながらどこか刹那的で、ときに郷愁に満ちた独特のサウンドスケープは、無限の空間を彷徨い続ける幻視者のようでもある。まさに修羅の道を経ずしては生まれ得ない、心象風景としての音楽なのだ。

Cosmic Yard

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  • アーティスト: DJ KRUSH,渥美幸裕,近藤等則,森田柊山,Binkbeats
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近代の精神分析家ユングは、民族間で無意識下に共有される知識や叡智を「集合的無意識」と名付け、個人の経験を超えて先天的に宿るものと考えた。この記事で俺がとくに取り上げたいのは「武侠の創造力」とでも呼ぶべきものなのだが、武や芸を極めると美が見えてくるという感覚は人類普遍に共有されているのではないかとも思える。武勇に優れた戦国武将のなかでも美的センスを持ち合わせた者は数寄者と呼ばれ、とくに茶の湯の文化を大きく発展させたし、辞世の句など歌に卓越した文学的才能を発揮した者も多くいた。

武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで (角川選書)

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たとえば、戦国最強と謳われた大名・立花宗茂の日本庭園が福岡に現存しているが、日本の美意識と原風景を見事に凝縮した名庭になっており、屈強な大男だった宗茂が作庭したという事実に驚かされる。天下無双の武芸者であるばかりか、繊細で洒脱な感性の持ち主であったことが理解できる。中国の映画監督チャン・イーモウは『英雄 ~HERO~』や『LOVERS』など、美しくも儚い武侠映画を数多く撮っており、日本人にはない感覚で武術と美的センスをうまく結び合わせることに成功している。

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禅仏教が至上とする世界観は、ミニマリズムの極致ともいうべき枯山水様式にある。徹底的に、そして極限まで無駄を排し、石や砂の配置によって山や川を一面の庭のなかに存在させる。在るようで無く、無いようで在る世界。そもそもの話に戻ると、おそらくクロン・グレイシーはそのような境地でオクタゴンに向かっていたのではないか。そう考えると、日本人以上に日本人的であるヒクソンとその息子、クロンへの思いはますます強くなる。センスの悪い格闘家は多いが、一流の武術家は圧倒的にセンスがいい。てゆうか、クロンのあの類稀な演出の才が理解できん輩は死んじまった方がいい。

 

なにはともあれクロンの試合は、90年代にグレイシー一族が唱え続けた『ジ・アート・オブ・セルフディフェンス』たるグレイシー柔術の、アートとしての美しさが再び輝きはじめた瞬間であった。

武を極めた者の生き様は、文学的に、存在論的にも美しいものだ。格闘家よ、藝術的センスを磨け!

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