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◯◯に修行は必要か? ~ホリエモン的なものへの回答~

堀江貴文VS.鮨職人』という新刊を読んだ。特段、ホリエモンという人間に興味はない。何故に世間では信奉者といえるほどこの人の言動をありがたがり、持ち上げる類の人たちがいるのかさえ理解できない。正直なところ、彼の魅力がよくわからないのだ。

 

ただ、ドラスティックなまでに偏重した欧米的な合理主義、新自由主義の権化ともいえるこの御仁と、梨園ばりに一般社会の常識とはかけ離れた伝統と格式を重んじる特殊社会の体現者たる新進気鋭の鮨職人とのあいだに、どんな化学反応が生まれるのか。多忙な師走の移動時間に読み流すにはちょうどいいと思った。

堀江貴文VS.鮨職人 鮨屋に修業は必要か?

堀江貴文VS.鮨職人 鮨屋に修業は必要か?

 

 

堀江が対談相手に選んだのは、渋谷『くろ﨑』や銀座『鮨 あらい』、北九州『照寿司』など、今をときめく高級鮨店の店主たちだ。そもそも江戸時代にはファストフードであった鮨を過剰に取り上げ価値を見出すあたり、ネットバブルの寵児で、反知性主義者としての堀江貴文というキャラクターをよく表している。

 

掲載店はいずれも店主が若くして独立し、2~3万円以上の客単価を稼ぎだす革新的な鮨食を提示する個性豊かな顔ぶれとなっているが、どちらかというとSNSなどの最新テクノロジーも駆使するニュータイプな店がピックアップされており、堀江固有の成金趣味が強い。少なくとも、彼の舌を信じて掲載店に行ってみようという気にはなれない。革新性を基準としていながら、小倉『天寿し』あたりが出てこない時点で疑問を感じてしまう。

 

対談内容もそれぞれの職人のビジョンやスタイルといったことよりも、経営的な視点から鮨店を論じたものになっていて、ビジネス書としての色が濃い。とはいえ「鮨屋に修行は必要か?」というサブタイトルどおり、ホリエモン独自の問題意識を焦点に語られているので興味深い発言もちらほら見受けられる。

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(北九州『照寿司』のInstagramより)

 

俺自身知らなかったことなのだが、ホリエモンは過去に「鮨職人になるために何年も修行するのはバカ」という発言が炎上し話題になったことがあるらしい。この発言の真意は、鮨屋の経営には調理技術だけではなく接客の技術が大きく鍵を握る。だから早い段階でお客の前に立つことが重要だということだったようなのだが、そんな堀江と気脈を通じた職人たちが対談相手に選ばれているので、職人たちも志向性が似通っている。それを示す印象的なやり取りが、目黒『鮨 りんだ』の河野勇太氏との対談の中にあった。

 

堀江 それは修行先を探していたんですよね?

河野 そうです。結局、恵比寿の『松栄』を選びました。

堀江 『松栄』の決め手はなんだったんですか?

河野 若い子たちが和気あいあいとやっていたからです。老舗では、上の人にビビりながら仕事をしているようなところが多くて。

堀江 まあ、そうでしょうね。

河野 僕は高校まで野球をやっていて「一年生からレギュラーをやりたい!」っていうタイプ。『すきばやし次郎』とか『銀座久兵衛』で何十年も下積みするっていう方もいるでしょうが、僕はすぐに現場でお客様を相手にしたかったんです。『松栄』ならそれができるな、と思って決めました。

(P.126~P.127)

 

しかし、はたして本当に長期の下積み修行に意味はないのだろうか。技術の研鑽のみが修行の効用なのだろうか。経営的な成功が修行の目的なのか。すべてを明瞭に、直線で結びつけることが真に合理的なことなのか。まわり道は本当に無駄なのか…

 

読む前から、この大きな疑問が俺の前に厳然と立ちはだかっていた。だからこそ共感を覚えぬ御仁であることを承知で書籍を手にとったのだ。しかし、日本文化が連綿と育んできた内弟子修行の慣習もまた、「グローバル化」の波に抗うこともできず、非合理の烙印のもとに淘汰されてしまう運命なのだろうか。このままいくと飲食業はおろか、付け人暴行問題に揺れる角界など、日本武道や伝統芸能でさえも前時代的という一言によって聖域化され、偏見の目を向けられかねない。こんなことでこの先、旧き良き日本の伝統は継承されるのだろうか。それでいいのか、日本。

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文化が育んできた伝統を継承する手段として、技術とともに受け継がれてきたのが教育システムとしての「内弟子修行」。長い歴史の中で淘汰されることなく、慣習として守り続けられたからには、それなりの理由があるはず。一見して非合理的な制度であっても、合理的な習得プログラムが内在しているからこそ、受け継がれてきたのではないだろうか。武道家であり思想家の内田樹は『修行論』のなかで、内弟子制度を次のように論じている。

 

いまでも伝統芸能の内弟子たちは、師匠の身の回りの世話をさせられる。芸の稽古はほとんどせず、ひたすら稽古場を掃除し、師匠の荷物を持ち、お茶や弁当を給士する。そんな内弟子修行を数年続けると、稽古していないはずの当の芸が驚くほど上達する。理由はある意味簡単で、生活を共にしているうちに、師匠と「呼吸が合ってくる」からである。(中略)そうやって共感度を高めているうちに、表情筋の使い方、発声法、着付け、歩き方から食べ物の好みや、ものの考え方まで師匠に同期してくる。そしてある日、驚くほどに豊かな芸の土壌が自分の中にすでに形成されていることに、弟子は気づくのである。

(P.189~190)

修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)

 

 

これを読むと一気に「修行」の意味が氷解する。つまり、修行という過程のなかで継承者は師匠というロールモデルを完全にコピーするために自我を捨て、師匠と同化する。そのプロセスこそが内弟子修行なのだ。やはり芸能の世界でよく云われる「守破離 *1」という言葉のとおり、まずは師匠の一挙手一投足を忠実に再現するべく「守」というフェーズが存在する。これを経ずして技術は昇華できない故に、もっとも重要で困難なフェーズと云っていいだろう。完全にコピーできた段階で自分なりの色を付加するのが「破」であり、できあがったものを解体し新たな流儀を組み上げる「離」の局面へと続いていく。

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下積み不要と切って捨てることは簡単だが、このプロセスを経ることなしに身につけられない機微や空気というものが存在する。結局のところは個人のスタイルやイデオロギーの問題ではあるのだが、長年育まれてきた技法によって生み出されたものには特有の美しさと感動が備わっているものだ。ある程度のベースだけトレースして、あとは自らの創意工夫で磨き上げていくというのも目的へと直結するひとつの手段ではあるが、過程のなかでしか見出し得ないもの、そこに「余白」や「侘び寂び」を重んじる日本文化の本質があるのではないかと最近つくづく考えさせられるのだ。内田樹は次のように続ける。一見して意味がないように思えるところにこそ、その実、意味があるということだ。

修行とは、長期にわたる「意味のわからないルーティン」の反復のことである。(中略)武道修行のかんどころは、このいつ終わるとも知れず、その目的も明示されない修行のルーティンを、どうやって高いモチベーションを維持して継続するか、にある。

修業論』(P.191)

 

畢竟、修行とは「心との戦い」なのだ。

心との戦い方

心との戦い方

 

 

※ちなみにこちらの記事も根は同じ問題を扱っている。ご興味があれば、ぜひ読まれたし。

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