Jitz. LIFESTYLE

アートと柔術と、ライフハックと。

愛しさとせつなさとくだらなさと ~ちびまる子ちゃんの同時代性とアナーキズム~

ここ1ヶ月の間にもいろんなことが起きてすでに風化しつつあるけど、さくらももこが亡くなったことを受けて初めて彼女のエッセイを読んでみた。とりわけ彼女のファンでもなく、彼女の著作が好きなわけでもなく、はたまた同世代でもない俺がなにゆえ突如として彼女の本を手にとってみようと思ったかは、自分でもよくわからんのだわ。

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ちびまる子ちゃんの人気が全国区となったアニメが開始された頃にはすでに俺は十代にさしかかっていて、古き良きノスタルジーに浸るというほどには幼少期の時間を共有していたわけでもなく。思春期に『COJI-COJI コジコジ』などの名作といわれる作品を愛読していたわけでもなく。ただ、なんとなく彼女がエッセイの名手だという話はどっかで聞いていて。亡くなってこれほど話題になる人なのだから、どういうフィルタで世の中をとらえ、どんな風景を見ていたのか。ちょいと視点を覗いてやろうっていう、わずかばかりのミーハー心が天の邪鬼な俺にも宿っていたと云えるかもしれない。

 

でも有名な漫画家の著作をどうせ読むのなら、おもいっきり評判の悪い1冊にしてやろうと思い立ち『焼きそばうえだ』という本を買ってみたのだった。ひねくれ根性まる出しのへそまがりな俺の性格はいみじくもこういうところに露呈するのだ。きっかけは、この記事だった。

 

 

この『焼きそばうえだ』、さくらももこ周辺の編集者やら業界人を中心に結成された「男子の会」にまつわる実話で、登場人物も皆あくが強いクセモノぞろいだ。なんともうだつの上がらない人生を歩むサラリーマンの植田さんに活路をあたえるべく、さくらを筆頭に全員がバリ島に焼きそば屋を開店させるべく奔走する珍道記なのだが、くだらなさの極致がツボにハマり一気呵成に読んでしまった。

焼きそばうえだ

焼きそばうえだ

 

 

毒にも薬にもならないが、独自の世界観を醸す個性的な登場人物たち。対照的に破天荒なまでに鬼畜な毒を吐きまくる、さくらのブラックな笑いのセンスがうまく相乗して、あの神回と名高いちびまる子ちゃんの「永沢君の家火事になる」を彷彿とさせられた。見事なまでに何も残らない読了感。感動的な余韻などあるはずもない。世の中はデタラメで、すべてはナンセンスなのだから。これこそがまさにアナーキーであることの証。嗚呼、さくらはかくもパンクな精神の持ち主だったのか。今まで彼女の著作を読んでこなかったことが悔やまれた。


ちびまる子ちゃん 116A「永沢君の家火事になる(前編)」 Chibi Maruko-chan ち

 

この本で描かれているさくらの毒のある科白の数々に、俺は何の違和感も感じなかったのだが、ことのほか旧来のファンには植田さんの人生を弄ぶさくらの心情を富裕者の“悪のり”ととらえているようだ。しかし、何故にこれほどの傑作がファンの間で悪評となっているのだろうか。ちびまる子ちゃんでもシュールな黒い笑いは随所に散りばめられているではないか。さくらももこを聖人君子のように美化して祀り上げるファンたちの心理の方にこそ違和感を感じざるをえない。みんな、さくらももこという人間を誤読しているのではないか。

 

さくらももこを語ろうとするならば、どうしても2つの側面に着目しなければならなくなる。さくらが描いていたものの本質、それはなんでもないことの中に潜む日常の幸せ。そしてもう一つが、抗うことのできぬ不条理な現実。これが大きなテーマになっていることは疑うまでもない。それを女の子の、しかも子供の目線から描き出し、そこにいわゆるバブル~新人類世代といわれた人たちと記憶を共有することで同時代性をまとわせ、人気を博したのが「ちびまる子ちゃん」だった。つまり、ある特定の世代の共感を呼び起こす装置がガジェットとして物語の中のいたるところに散りばめられ、内蔵されていたのだ。それがある種のノスタルジーを喚起し、人気に拍車をかけた。

 

ちびまる子ちゃんの偉大さは、画一化された社会という共同幻想を打ち砕き、見事なまでに解体したことにある。折しもバブルの崩壊によってアイデンティティを喪失した日本人に、強烈な個性をまとったキャラクターたちがブラウン管の中で躍動することで人それぞれの幸せ、それぞれの生き方を提示した。どんなに他人から見てクソで奇特な人生であろうと、自分を全うするということこそが最大の幸せではないか。人と違うことはいいことではないか。さくらが永沢君や藤木君というキャラクターをとおして表出させたのは、閉塞した時代の空気に埋もれぬアイデンティティであり、“らしさ”を尊重した分人主義的なゴーイングマイウェイな生き方だ。そして、それをもっとも体現していたのがほかでもない、さくら本人だったのだ。

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まさにさくらの思想はゼロ年代におけるオンリーワン教育の先駆けを地で行っていたわけだが、個性を尊重するということは裏を返せば必然的に、法によって導出された体制の模範的人間像を脱構築するという点において、かぎりなくアナーキーな思想といえる。それは時に、一般的な道徳だとか倫理とされる領分を侵犯することをも尊重することでもあるわけだ。人間が清濁併せ呑んだ存在である以上、見たくない面も肯定しなければならない。物事には必ずといっていいほど表と裏があって、所謂さくらのファンの方々がいかにこの表面しか見ていないかということが『焼きそばうえだ』に寄せられた悪評からうかがい知れるのである。

 

しかし、翻って現代は「価値観の多様化」などと声高にささやかれる風潮によって、時代を語れるもの、共有できるものが希薄化しているようにも思える。かつて時代を表象していたはずの音楽は効力を失い、ドラマやアニメといった物語は趣向が細分化されジェンダーレスに去勢されてしまった。「今」という時代のトレンドを語れるものが、どれほどあるというだろう。数年、数十年経って、「あの頃はよかった」と言える御仁がどれほどいようものか。そう考えると同時代性を失ってしまった「今」は、なんとも哀しい時代といえそうだ。

 

人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる掌、幼かった頃の記憶、未来の予感・・・(中略)それらすべてが<私>の一部であり、<私>という意識そのものを生み出し・・・そして、同時に<私>をある限界に制約しつづける

ー映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』より

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同時代性とは、位相のずれとアナクロニズムをとおして時間に寄り添う、人と時間との関係性なのです。特定の時代にあまりに密着する人たち、あらゆる点において時代と完全に一致してしまう人たちは、同時代人ではありません。なぜなら、まさしくこのために、その人たちは自分の時代を直視することも、その上に視線をとどめることもできないからです

ージョルジョ・アガンベン『裸性』より

 

次は名作の誉れ高い『もものかんづめ』も読んでみようと思う。

もものかんづめ (集英社文庫)

もものかんづめ (集英社文庫)