Jitz. LIFESTYLE

アートと柔術と、ライフハックと。

築地ワンダーランド ~選び抜く生き方~

マルクスによる資本論の冒頭は、次のような一節からはじまる。

資本主義的生産様式が支配している社会の富は『商品の巨大な集積』として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる

 

これだけ世の中に良い商品や他にない製品が溢れている現代。これ以上、躍起になって新たな価値や概念を創出することが、はたして人類にとって意味のあることなんだろうか。

 

巷に氾濫する最新のデジタルガジェットや様々なコンテンツ、工業製品なんかは一旦置いておいて、ひとたび伝統的な世俗社会の中で生み出されてきた旧式デバイスや非効率に思える慣習に目を向ければ、積み重ねられた知恵の深さに改めて感慨に耽るってことがあんたにもあるはずだ。利便性・効率のみにフォーカスして生み出された現代社会の産物、それらは本当に人間を幸せにしているだろうか。

 

そんな、悲壮感にも似たノスタルジックな郷愁に駆られたのは『TSUKIJI WONDERLAND(築地ワンダーランド)』というドキュメンタリー映画を観たからだ。この映画、一言でいって素晴らしかった。「築地」といえば移転問題に揺れ再評価の機運も高まっており、場外は一般に観光地・グルメスポットとしても親しまれているが、一般立ち入り禁止の市場の中のことまで知る人は少ない。そんな日本人でも知っているようで知らない、市場の中に生きる仲卸業者の仕事に焦点を合わせて1年間にわたり密着撮影したのがこの作品だ。

TSUKIJI WONDERLAND(築地ワンダーランド) [Blu-ray]

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俺らが知らないような世界を見せるっていうドキュメンタリーとしての本義に忠実なのも然ることながら、美しい映像と音楽で、そこに繰り広げられている人間ドラマ、職人の矜持、生き様までもいきいきと活写している。さらにはすきやばし次郎、鮨さいとう、ESqUISSE(エスキス)、noma(ノーマ)、道場六三郎など名だたる名店の料理人から、文化人、評論家など食に関わる人々がそれぞれの視点から「築地」を語り、その本質を焙り出すことに成功しているのだ。

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ちなみに世界一の水産資源と情報の集積地である「築地」に対する考察は、地理学的な成り立ちから江戸時代の日本橋魚河岸にまで遡るその歴史、市場や仲卸の機能性などを日本人と海との関係性から読み解いた中沢新一の『アースダイバー 東京の聖地』という著が詳しいのでここではいちいち引用はしないが、特筆すべきは市場内の特異な商習慣によって経済合理性とは真逆の、独自な経済圏をつくり出したとも言える築地の謎に包まれた内部の一端を垣間見ることができる貴重な映像群はとても魅力的で、数多ある見どころの中で俺がもっとも感銘を受けたのは仲卸業者の「目利き」としての生き様、仕事の美学だった。

 

世界でも類を見ない魚の生食文化を持つ日本。だからこそ高度に専門分科したプロフェッショナルが介在する独自の市場システムが出来上がった。豊富な魚種、豊かな漁場、それに付随する用途もまた四季折々に変化する。単純に鯖を例にとってみても、穫れる時期や場所によって肉質はまったく異なり、向き不向きな調理法が存在する。料理に供される前の、そういった高度な情報を頭に入れながら旬の魚を旬な状態で選別し、伝統の保存技術で最高の鮮度を以ってして顧客に届ける役割を担うのが仲卸業者の人々だ。

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彼らは漁獲期や漁場などのメタデータだけでは判断できない、個体差による味品質の保証というところまで責任を負い顧客が必要とする食材を見分けて仕入れる。魚というのはまさに自然に生きる生体なのでたとえば天候不良で漁に出られないことや、気候変動によって回遊路が変わり季節ごとの漁場さえ変わりうることがある。そんな魚を取り巻く環境の変化にも機敏に反応して一次情報を取得し、顧客が必要とする商品を確保しなくてはならないわけだ。そこには顧客から寄せられる絶対的な信頼関係と己の力量がなければ生き抜いてはいけない過酷な側面がある。

 

映画の中でマグロの仲卸の1人がこんなことを言う印象的な場面がある。「築地の人間は妄想の中に生きている魚を見ながら妄想ばかりしていますよ。これがお客さんの口に入る時、どんな味になっているのか。そればっかり考えながら仕事していますよ」と。意外な話だが、こーゆー感慨は実は芸術家やアーティストの心境と驚くほどに近しい。これはとくに鮪という、一尾の卸値が外車1台分にも等しい金額の高級魚を専門に扱う業者だからこそというのもあるんだろうが、その妄想力、つまりイマジネーションたるや最高の「創作物」をつくり上げようとする芸術家の気迫にも似ている。彼らにとっては自ら吟味して競り落とし、捌いた切り身はまさしくダイヤモンドにも匹敵する「作品」なのであろう。

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彼らが技能の拠りどころとするのが自らの「目利き」なわけだが、この目利きという技能はつまるところ「アート」なのだ。以前、このブログを始めるにあたっての前口上として書いた記事に俺はこんなことを記している。

「アート」の語源は「アルス(ars)」というラテン語で、そのもともとはギリシャ語の「テクネー(techne)」、つまり「テクニック」の語源となった訳語から由来してることからもわかるとおり、アートとは本来生きるうえでの「技術」を意味する

 

そう、既存の何かから「選び」取るというのは、モノは何であれ立派なアートの領域における芸術的行為なのだ。それはあたかも大芸術家マルセル・デュシャンがサインを施しただけのなんでもない既成のセラミック製小便器を「泉」と名付け、自らの行為による芸術作品と規定したように。それはまたDJが数多ある音楽の中からレコードを選りすぐり、テンポを合わせ繋げることで新たな音楽を再構築したかのようでもあり、そしてまた卓越した柔術家が数ある関節技のバリエーションの中から状況に合わせて最適な技とポジションを選択するようなものでもある。

 

人は絶えず選択することで生きている。そして「選ぶ」という行為には少なからず個性(オリジナリティ)が潜んでいて、選び抜いた先には選定者ならではと言える経験の集積としての個性がカタチとして残るのである。既存の枠組みの中から一般とは異なる価値基準で事物を選ぶっていう行為は、また新たな創作物として再構築されるのだ。それを識者によっては「人は編集しながら生きている」という言い方もする。う~ん、どっかで聞いたような…

 

このままぶっとんだところに話が行きそうなので、そろそろまとめる。「選ぶ」という行為がアートであるなら、この「選ぶ」というアートには再現性がない。「選ぶ」ことは個人の主観によってのみ可能なことなので属人性を高め、原則として同じ行為を他者は行うことができない。再現性がないがゆえの結果としてアート「作品」は価値が高まるのだ。ところが現代の基本原理となっている資本主義において、資本は絶えず「効率」を、そして再現性を求める。なぜなら再現ができない、ただ1度きりのものでは利潤が増幅し膨張しないからだ。

 

つまり、築地の仲卸による職人芸ばりに高度に専門化した「選ぶ」という行為はそういった「効率性」への抗いであり、彼ら仲卸業者に資本主義に背を向けたアウトローの姿を見ることができるのだ。彼らは自らの目利きひとつで、顧客との信頼関係のみを拠りどころに現代の効率化とは裏腹な反骨精神によって尊厳を保ち、生計を立て人生を謳歌している。まさに、ここに現代日本が失ってしまった人情や任侠道にも通ずる「侘び寂び」の世界に彼らは生きているということが言える。

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そういう観点でこの映画を眺めていると、旧くて新しい日本の姿というのが築地には凝縮されていることが見受けられる。何より人々が活き活きとしている。そうすると現代社会を支配するシステムの中に庇護されて生きている俺らのような人間が、はたして本当に幸せといえるだろうかという疑問が頭を過るのだ。

 

ある意味では近代化に背を向け、己の力で未来を切り拓く人たちのドラマ。そして市井に息づくそんなアウトローたちを優しく包含し、商品自体や貨幣ではなく「人」という信頼感で商取引が行われるアナクロとも思える経済システムと慣習。そこに何を見るかは鑑賞者次第なワケだけどさ。日本社会が効率とは異なる原理でつくり上げた旧来型市場システムの濃密なこの内面世界を、あんたも一度は目撃すべきだと思うよ。

 

それではまた、Adiós, amigo!


『TSUKIJI WONDERLAND(築地ワンダーランド)』予告篇

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アースダイバー 東京の聖地

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